こんにちは、文LABOの松村瞳です。
山月記の四回目。今回は、まとめとなります。
ネットで検索をしてみたら、本文を掲載しているページを見つけたので、張っておきます。去年一度読んだ、という受験生たちも、一度読み直してみると、新しい発見があるかもしれません。
【人は見た目通りの性格ではないという真理】
-プライドが高い人の心は真逆-
人は見た目が9割、という本がありましたが、それが間違っているというわけではなく、見た目で判定できるものが多い、ということです。
そこからわかることは、
それら真逆の心が、この山月記を読むと見えてきます。
-怯えが凶暴さを生む-
昨日のエントリーで、何故李徴が尊大で、人を見下し、自分の能力を誇示しながら、まるで人に嫌われるような態度をとり続けていたのかを、解説しました。
その威張る気持ちの根幹が、実は「自分が馬鹿にされたくない」という怯えであったこと。そして、自分が出来ないということを極度に恥じる気持ちが強いからこそ、その恥を感じなくてもいいように、どんどん人に対して偉そうな振舞いを続けていく。
人に対して威圧的な態度をとる人間は、本当に威圧的な性格をしているわけではなく、何かを守りたいという怯えと、自分の価値を踏みにじられたくないという防衛本能から、極度な攻撃に出でいるだけなのです。
意外かも知れません。
酷い言葉を投げかけ、偉そうに振舞い、平然と人に対して侮蔑するような言葉が投げかけられる人間が、実はその心の中は怯えが存在していたからだという事実。
けれど、中島敦が描き出した世界は、小説の中だけではなく、実際の私たちの社会の中でも溢れている行為です。
-李徴は私たち自身-
この山月記。現在の国語の教科書では、おもに高校2年生が使う現代文Bの教科書に掲載されていることが多く、高2というある意味、高校生活で最も楽しく、かつ、最も不安定な時期に授業を行うことが多いのですが、この「尊大な羞恥心」と「臆病な自尊心」の解説を行うと、誰もが目つきを変えていきます。
多分、本人達は自分の表情が変わっていくことなど気にもしていないのでしょうが、最初は
「ただ、虎になってしまったことを悔やむ話」
「発狂した人が虎になって、人に戻りたいって後悔する話でしょ?」
と話していた彼らの表情が、段々と読解を深めていくにつれ、目の前の文字ではなく、少し遠くを見るような。焦点の定まっていない、独特の表情を見せることが殆どです。
人は自分の内面と対話をしたり、深い思考に耽っている時は、得てして目の前の物を見ているようで、見ていません。
これは、別段李徴だけの話にはとどまりません。程度の差はあれ、私たち全ての人間が持っているものであり、自分を良く見せたいという欲求は、誰もが心の中に持ち得ているものだからです。
人間として、当たり前の感情。自分の中にも、確かにそれは存在している。弱みが無い人間など存在しないのです。そして、李徴の弱みは、自分が無能だ。才能などないと、人に嘲り笑われることでした。
-李徴の犯した間違いとは-
彼は、自分の弱みをさらけ出すことが、出来なかった。そして、創作をする上において、一番大事な「表現」「伝える」という部分で、大きな間違いを犯していた。
彼が望んでいたのは、名誉と名声です。
100年名を残す人間になりたい、と書いてありますが、実際、100年以上歴史に名を残している人物たちは、皮肉なことに「歴史に名を残そう」として何かを成し遂げたわけではありません。
歴史を学べば解りますが、歴史に名を残している人々は、名誉を最初から欲したわけではなく、最初は「誰かを助けたい」や、「この人についていきたい」「世の中を変えてみたい」「倒したい相手がいる」「これをやっていることが、楽しい」「これしか出来ないから、やっているだけ」という場合が殆どです。
誰も、名誉を求めて行動はしていない。逆に言うのならば、名誉を求めた時点で、名を残すことなど出来ないのでしょう。
-何かを自慢し威張る人は、承認欲求の塊-
詩人として、名を残したかった李徴は、人と交わっては詩など創れないと山にこもります。沢山の詩人たちが山で隠棲をして過ごした故事から、それを習った行動とも取れますが、その実、人の視線が怖くてたまらなかった。人と話す時に、本能的に怯えを抱いていたからこそ、人との接触を避け続けたのでしょう。
本当の天才に、孤独な人はいません。
一人で何もかも成し遂げているように見える人でも、沢山の人に支えられ、生きている。同じように頑張っていたり、難関に挑戦して苦しんでいる、心を許せる友人達が必ず傍に居ます。
むしろ失敗する人の共通点は、自分の周囲から人を排除する人なのかもしれません。
-天才は人を排除しない-
自分の弱みを曝け出せないから、その人の目の前に居る相手も弱みを曝け出すことは出来ない。更には、聞いてもいないのに実績などを持ち出し、それを口に出す人はどこかしらで不安を抱えている人だということも、同時に見えてきます。
-承認欲求の害悪-
人から認められたい。褒められたいという欲求に振り回され、人からの称賛ばかりを求め、孤独に突き進んでいった李徴。
中島敦はこの作品を通して、私たち全員の心の中に居る李徴に語りかけているような気がします。彼が虎になり果ててしまった後に、何度悔やんでも悔やみきれないと涙を流し続けたように、あなたはならないで欲しいと、語りかけているように思えてならないのです。
人よりも秀でたい。称賛を得たい。褒められたいと思うことは、確かに誰の心にも巣くっています。
それを否定することは、人間としては出来ません。
けれど、それに飲み込まれず、猛獣が自分の心の中に居るということを解って、その獣を飼い太らせることがないよう。せめて、手綱のつなぎ方や、自分との付き合い方。人を避けたくなってしまったときに、自分を振り返る視点や、考え方をしているか。
臆病な自尊心、尊大な羞恥心を感じてはいないか。
「それ、知らない」と、人前で言える強さを持っているか。
そう、語りかけてくるように、思えるのです。
-誰の心の中にも李徴は存在する-
この小説を読んだ直後。
感想を聞くと、李徴が嫌な奴だと皆が言います。けれども、嫌な奴だけれども、嫌いになり切れない。なんとなく、気になってしまう、という感想をよく聞きます。
この、性格的には到底好きにもなれそうにない、李徴。
けれど、私たちは李徴を嫌いになり切ることはできません。特に、高校2年生ともなると、挫折も色々味わってきている時期です。だからこそ、李徴の苦悩が理解できてくる。
この李徴は、誰の心の中にもひっそりと棲んでいる存在です。
生徒たちが読解を深めていく途中で、どこか遠くを見、そして思い当たることが多々あるのか、心の中を読まれたくないのか、さっと目を伏せて考え込む子や、心ここにあらず、と言った風情で何かを反芻している子。理解をすればするほど、皆、様々な表情を見せてくれます。
偏差値60以上の高校の子達は、中学時代は少なくともクラスで成績がトップクラスであったことは、曲げようもない事実です。
そして、その成績を維持するために、それぞれ多種多様な努力をし、高得点をとることに慣れている経験を持つ人間が、プライドを持たないわけがありません。
皆、多かれ少なかれ、自尊心を持っているのです。そして、その自尊心があるゆえに、李徴の苦しみが理解できる。
-自己の経験と照らし合わせてみる-
中学でトップを経験している子達も、進学校の高校になってしまうとそうは上手くいきません。当然ですよね。能力の高い人間達に囲まれることによって、トップでいられるのはわずか上位10%から20%。大多数の人間は、平均から平均以下の点数を取るのです。
生まれて初めてとる、20点や30点といった点数。その点数は間違いだと努力をしても、なかなか容易に点数は上がらない。中学では簡単に上がったはずの点数なのに、それがどれだけ努力をし続けても、上がらない。
どうして? と誰もが思い、点数が伸びない事にうつむき、唇を噛む経験を一度や二度、体験してきている状態です。
だからこそ、この山月記の内容が、心に響くのでしょう。
ああ、自分の中にも、確かに李徴が存在すると、挫折をし、自分が能力が無いことを受け止めきれずにもがいている途中だからこそ、この物語が大きく心を動かしていく。
これは学生だけに限らず、大人も同じです。自分を大きく見せたくなる。知らないと、言えなくなってくる。むしろ、大人の方がこの李徴の姿は胸にくるものがあるかも知れません。
【まとめ】
-小説の主題-
この小説の主題は、人間の誰もが持っている猛獣という、獣。それは、人間の誰もが持っている、承認欲求です。
人より秀でたい。人よりも、褒められたい。抜きん出たい。名を残したい。
なんでもかまいません。
けれども、その自分が持っている欲求に身を任せてしまったとき。
見えてくるのは、必ず心の中の猛獣が肥え太り、それが表に出た瞬間には、取り返しのつかないところまで行ってしまっている。
自分の外見までもを変えてしまう前に気づき、その猛獣を飼いならす必要がある。
テスト対策だけでなく、自分の心の動きを知る手助けとして、どうかこの山月記。
手にとって、改めて読んでみてください。
ここまで読んで頂いて、ありがとうございました。
続きは、定期テスト対策です。
実際に記述をすることで、読解も深まりますので、ぜひチャレンジしてください。
定期テスト対策問題
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