筑摩書房発刊の論理国語から、今回は湯浅誠著の「貧困は自己責任なのか」を解説します。
「教育の機会が平等に与えられている中で、貧困に陥ってしまうのは本人の努力が足りなかったせいで、あなたが貧しいのはあなたの責任であり、それは社会や政治とは全く関係のないものだ」という、いわゆる「自己責任論」に対しての、アンチテーゼであり、反論の評論です。
これは内容も読む価値がある評論ですが、もう一つの読む価値として強調したいのは、何かの意見に対して反論および批判をしたいときの手順として、安易に「それは違う!!」というのではなく、根拠と実例を伴って理性的な議論をし、状況を理解するための正しい反論の仕方を学ぶのに、最適なテキストとなっております。
昨今、SNSなどでの誹謗・中傷・嘲笑・侮辱・暴言などが大きな問題となっておりますが、ある生徒からSNSの書き込みについて質問を受けたことがあります。それは
「他人を傷つけるためではなく、自分が違うと思うことを主張するやり方って、議論ではどうしたらいいんですか。誹謗中傷と冷静な反論の違いって、なんなんですか?」
というものです。
その質問に対しての答えのひとつが、この評論の書き方、意見の提示の仕方なのではないかなと私は思います。
「全ての意見を肯定するだけの世界」というのは、実はとても気持ち悪い世界だと思うんですよね。それこそ、ジョージ・オーウェルの「1984」とか、そんなディストピアな世界でしかないですよね。
(未読の方はぜひ。ディストピア(ユートピアの反意語)という新しい言葉を創り出した名著です。)
けれども、だからと言って否定が行き過ぎてしまい、暴言になってしまう現状も大いに問題があります。それを恐れて言いたいことも言えなくなってしまうのも、おかしいことです。
なら、ある「意見」を否定する意図・目的を、きちんと自己確認して、冷静な議論を続けるための意見の提示の仕方を学び、実践していくほうがよほど健全です。
まず理解してほしいのは、反論を提示することは相手の意見を否定することではなく、自分が正しいことを誇る事なんかでもなく、「相手の主張を理解しようとする行為」であることを前提として解っておくことはとても大事です。
それをわかった上で、ある物事を否定し、反論したいときにはどうすればよいのか。その方法を評論を読みながら学びましょう。(これ、裏のテーマです)
では、貧困は自己責任かどうかを論議するために、まず「貧困」とはどのような状態なのかを、本文を読みながら理解しておきましょう。
本文解説
第1~6段落
アマルティア・センの新しい貧困論
ノーベル経済学賞を受賞したアマルティア・センという学者がいる。彼は、新しい貧困論を生み出したことで知られている。彼の貧困論は、選択できる自由の問題と深く関わっている。(本文 第1段落)
このアマルティア・セン氏は、インド出身の経済学者で、経済の公平性・貧困に対する研究が高い評価を受けている有名な方です。
彼の唱える「新しい貧困論」は、それまであった「古い貧困論」=「自己責任論」を大きく覆すものでした。
簡単に言うと、それまでのいわゆる古い貧困論は、貧困者は怠け者で努力をしなかったから、稼ぐ能力を養うこともせず、怠けて働かず、誰かの助けを待つだけの卑怯者である、と言った論です。(あえて、悪辣に書いております)
この「努力をしないものが貧困に陥る」といった考え方はアメリカ主流の考え方です。アメリカは努力至上主義。対し、ヨーロッパは貴族文化が土壌にあるために環境の結果だという考え方が強い印象があります。(個人的に足して割ればよいのに……といつも思いますが、そう簡単に変わるものではないからこそ、難しいのでしょうね。)セン氏はカルカッタ大学を卒業した後、イギリスのケンブリッジ大学で博士号を取得している方なので、「環境」の影響力を強く意識された方なのですね。
そして、日本(特に戦後から現在にかけての日本)は、アメリカ文化の影響を強く受けているので、貧困は自己責任だという考え方が主流を占めているように感じます。(働かざる者食うべからず、の考え方ですね)
けれど、セン氏は貧困は怠け者が陥る状況ではない。そうではなく、個人の力ではどうにもできない周囲の状況が折り重なって導かれる結果だと、彼は説きます。
貧困≠所得の低さ ではない
センは「貧困はたんに所得の低さというよりも、基本的な潜在能力が奪われた状態と見られなければならない。」と主張する。(本文 第2段落)
私たちは、貧困状態だと聞くと、真っ先に所得の低さ。つまり、「お金がない」という状態を想像し、定期的な収入がない状態だったり、無職であったり、職があったとしても生活することに充分なお金がない状態を想像してしまいます。
つまり、貧困という言葉には常に「金銭」をイメージさせる概念が付随していることを、ここで確認しておきます。
何を当たり前なことを……と思うかもしれませんが、前提を確認するのはとても大事なことです。東に向かわなきゃいけないのに、最初の一歩が西に向かっていたら、幾ら進んでも目的地には辿りつけませんから(笑)
分かっていたことだとしても、飛ばさずに確認をすること。結構大事です。
貧困は、定期的な金銭収入がない状態ではなく、基本的な潜在能力が奪われた状態だとセンは言います。なら、この基本的な潜在能力とは、どういうことを指し示しているのでしょうか。
基本的な潜在能力とは
潜在能力とはセン独自の概念である。それは「十分に栄養をとる」「衣料や住居が満たされている」という生活状態に達するための個人的・社会的自由を指している。(本文 第3段落)
本来の潜在能力の意味は、本人が自覚していない、まだ目に見えない能力の事であり、伸びしろがある可能性のことです。
けれども、センはこれを「環境が持っている能力」(機能)と定義づけました。
つまり、本人たちは生まれた時から変わらない状況なので、環境に能力がある、もしくは欠如している、とは思えないのですが(自覚がないから、潜在的)明らかに環境は能力を持っています。海外経験がある人ならば。もしくは、引っ越しなどで違う土地で生活したことがある人ならば、うっすらと理解できるのでしないでしょうか。
分かりやすい例を言えば、よく「1駅分歩いた」といったとしても、住んでる場所で鉄道の1駅分の距離数は恐ろしいほど違います。数キロの場合もあれば、その十倍の距離が当たり前、なんて土地もありますし、環境が違えば「近いよ」の言葉が持つ、実際の距離感も恐ろしい程違います(笑)(北海道は車で1時間を「近所」というらしいですし)
これは住んでいる土地によっても違いますし、その人の職業や普段の移動距離にも比例します。
その環境による影響が如実に出るのが、「機能」だとセンは言います。
例えば、環境がもつ「機能」は、個人が望む状況が、家から歩いて5分で手に入る状況が確保されているか、ということになります。ジュースが欲しくて、仮にお金があったとしても、徒歩1分に自動販売機がある状態と、コンビニが車で30分走らないとない状況では、仮に同等のお金の所持があったとしても、「機能」は大幅に違います。私も地方出身なので、この感覚の違いは特に実感する時がありますね。日本国内でも住む場所によって違いがあるのですから、これが国を超えての環境の「機能」の違いなら、もっと如実に出るでしょう。(実際に、外国人の権利が制限されている国家は山ほどあります。)
所得が人よりもあったとしても、選択の自由が与えられない状態では、金銭はただの紙屑です。有り得ない事ですが、離島に住む富豪が居たとして、病気になった時に医者にかかることができなければ、お金が無くて医者に診てもらえない人と、医療を受けられない状態としては同じ「貧困」であるわけです。
センの唱える「貧困」とは
つまり、センは金銭や所得は望ましい状態を得られるための交換切符のようなものであり、そもそも交換できる場所や相手がいなければ、その力を使うことも出来ないのだと主張します。
その選択できる自由があるのかないのか。それは個人の問題ではなく、その場所が持っている環境の潜在能力に依存してしまいます。選択の自由がない場所では、環境が持つ潜在能力を発揮することはできず、望ましい状態は得られません。
この、基本的な潜在能力(=医療・教育・交通・衛生観念・栄養状況・治安など)が奪われた状態が、センが主張する「貧困」です。
確かにセンが生まれたインドでは、カースト制度が今現在でも根強く環境の中に根付いています。高収入や社会的に高い地位につけるのは、カースト制度で上位に生まれ育ったものたちの特権で、下位の人間たちはどれだけ努力したとしても、状況を改善することはできません。どれだけ能力があったとしても、です。
近年、インドの経済発展が目覚ましい理由は、IT業界の爆発的な発展によってですが、このIT業界からとんでもない天才が生まれているのは、カースト制度に記載されていない新しい職業であり、古い慣習に縛られずに努力が成果へと直結したからだと言われています。環境の潜在能力が与えられた途端、爆発的に発展したわけです。(それ以外にも多くの理由がありますが、ここで書くと膨大になるので割愛します。興味のある人は、調べてみてください)
第7~14段落
筆者の「潜在能力」の概念
私自身は、ホームレス状態にある人たちや生活困窮状態にある人たちの相談を受け、一緒に活動する経験の中で、センの「潜在能力」に相当する概念を、”溜め”という言葉で語ってきた。(本文 第7段落)
そして、ここから筆者の考えに移行します。
自分の意見と似た概念を持つアマルティア・セン氏の著作から根拠を引っ張り出し、その後に自分の説を展開していきます。
ここからが筆者の考えでもあるし、セン氏の考えに同調している、賛成している意見なのだなということが、「潜在能力に相当する概念」という文からも解ります。
“溜め”の機能
“溜め”とは、溜池の「溜め」である。(本文 第8段落)
筆者は、あえて抽象的な表現をしています。
「溜池」とは、言葉の定義で言えば「用水を溜めておく人工の池」のことです。人工的に、つまり作為的に使うための水を溜めて置く池のことですが、これがお金になれば貯金になります。けれども筆者は、「溜め」は金銭に限定されるものではない、と言い切ります。
貧困は金銭だけが問題ではないと主張するセン氏と、重なる考え方です。
金銭に限定されない”溜め”
頼れる家族・親族・友人がいるというのは、人間関係の”溜め”である。また、自分に自信がある、何かをできると思える、自分を大切にできるというのは、精神的な”溜め”である。(本文 第10段落)
筆者は、“溜め”は外界からの衝撃を吸収するクッションの役割を果たすとともに、そこからエネルギーを汲み出す元にもなりうるものだと言います。
確かに、所得が十分にあったとしても、精神的にボロボロであるのならばいずれ動けなくなってしまい、病気になってしまえば働けなくなり、所得も無くなってしまいます。その時に支えてくれる家族や、新しい仕事の話をもたらしてくれる友人などが居ればまた再起することも可能かもしれませんが、それがなかったとしたら……貧困に陥ってしまうのは、簡単に想像できます。
こう考えると人間は実に様々なものに支えられています。
そのどれか1つが「溜め」てあれば、ギリギリのところで踏みとどまることができます。けれども、どれもがなかった場合、人は簡単に貧困に陥ってしまうのです。
セン氏の主張は、国際的な国家間のインフラの差や、国家の持つ底力・政治機能に波及した主張ですが、筆者の主張はより個人的であり、先進国の中での見えづらい貧困を語っている印象です。
けれども、発展途上国の人々がなぜあんなにも困難な国家状況でも明るく、タフなのか。考えてみれば、家族間や部族間のつながりが強く、互いに支え合って生きているからこそ、精神関係や人間関係の「溜め」が桁違いに高いのかもしれません。
人は、誰か1人でもいい。利害関係のない人物が、自分を心から応援してくれているとわかると、不思議と勇気が湧いてくるものですから。
「選択肢を失う」状況とは
逆に言えば、貧困とは、このようなもろもろの”溜め”が総合的に失われ、奪われている状態である。(本文 第13段落)
物理的・精神的”溜め”が失われている状態、というのは、自分を支えてくれる家族や友人関係がおらず、自分で金銭を稼ぎ、自分自身を生かすことができない状態に陥ったとき、まともな職を探そうとしても日雇いの労働に向かってしまうのは、当然の選択です。
月給の仕事は、一ヶ月分の労働の給料をその月の月末に支払うシステムです。
その月末までの「生きるお金」がなかったら、すぐさまお金が支払われる職業しか選択肢がなくなってしまいます。
そう考えると、この社会はある意味では、全ての国民に”溜め”がある前提でシステム化されていることが良くわかります。職業を得るためには長期間の就職試験は当たり前ですし、住む場所がなければ職を得ることはかなり難しいです。
そして、職業がなければ住む場所も貸してはもらえません。
それぞれが頼り、繋がりあって出来上がった社会ですが、一旦その”溜め”がなくなってしまった、もしくは本人の責任ではなく奪われてしまった場合は、そこから抜け出すことは絶望的になってしまうほどに困難な道しかないのです。
“溜め”を失う過程は、さまざまな可能性から排除され、選択肢を失っていく過程でもある。(本文 第14段落)
全ての可能性が閉ざされ、精神的な自尊心や自信すらも崩壊し、再起を思うことも諦め、追い詰められた人が陥る状況が、「貧困」であるのです。
言葉というものは、本当に残酷だなと思うのですが、時に真実をもうみたくないほどに明確に教えてくれます。
「貧困」という言葉は、「貧して、困る」と書きます。
貧。つまり、貧しい状況でも幸せに生きている人々はいくらでも存在します。でも、その状態で「困る」人が「貧困」なのです。
そう考えると、確かに「貧困」は、金銭的な問題だけの話ではなく、さらに言うのならば自己責任論で片付けることはあまりにも短絡的な思考であると思えます。
第15段落
自己責任論との決定的な違い
では、まとめの部分です。
以上のように貧困状態を理解すると、それがいかに自己責任論と相容れないものであるかがわかるだろう。(本文 第15段落)
筆者は続けて言います。
貧困の自己責任論とは、「他の選択肢が豊富にあり、かつそれを等しく選べたはず」という前提が根強くある中で、「豊かになる選択肢を選ばなかったのは、あなた自身ですよね」という考え方が根底に流れている論理です。
一方、貧困の真実とは、「他の選択肢も与えられず、または奪われた状態で、等しく選べない」前提に成り立ち、環境の基本的な潜在能力もなく、収入のない個人を支えてくれる、物理的・精神的な支えになる”溜め”が失われた状態の人間が陥る状態なのです。
「あなたが貧困なのは、あなたのせいだ」
そう言い切ることは、一見正しく見えるのかもしれません。
けれども、では仮に自分が豊かであると仮定して、その豊かさは一体どこからきたのでしょうか?まさかここまで読んで、自分の力だけで掴み取ったもの、と言い切る人はいないと思います。衣食住を確保してくれたのは、誰なのか。教育制度を確保してくれたのは、そこに行くための交通手段は、道路や信号などのインフラは、一体誰が整えてくれたのか。それら、環境の持つ「潜在能力」と、家族や友人などの”溜め”によって、自分の生活は支えられているし、何か問題があったとしても、回復するまでの金銭的な生活の余裕や、精神的な安定が自信や自尊心をもたらしてくれれば、また立ちあがろうという気に、人はなるものです。
では、それが生まれた時から一切ない状態の人に、「あなたが貧困に苦しんでいるのは、あなたが努力しなかったからだ」と、言い切れるでしょうか。
貧困は自己責任だと主張する人々は、その前提が「豊富な選択肢が会って、その中で貧しくなる道を選んだのは、あなただ」という考え方に基づいています。
筆者が主張する「貧困」は、まず、選択肢がなく、さらには環境の持つ潜在能力が全く期待できない状態で、かつ、さまざまな意味でその人を支える”溜め”が奪われたり失われたり状態を指すので、前提条件が違うので比較対象にもならないし、相容れない=分かり合えないは、当たり前だとまとめているのです。
タイトルの問いかけの意味
この評論のタイトルは「貧困は自己責任なのか」です。
あえてこのタイトルをつけた筆者の意図は、「それが本当にそうであるかどうかを、読者に考えてほしい」からでしょう。
そして、読み終わった後、「自己責任ではない」という答えが、読み終わったあなたの頭には思い浮かぶのでしないでしょうか。あえて答えを本文の中で書いていないのは、それを読んでいるあなたに読み取って欲しいのではないでしょうか。与えられた解答ではなく、自身で考えて読み取ってほしい。本当に「自己責任」で貧困に陥っているのかどうなのか、改めて筆者の問いかけに対して、考えてみてください。
さて、筆者は「自己責任論」を真っ向から否定していますが、一言も「自己責任論は間違っている」とは書いていません。
相容れない、とは書いていますが、自己責任論が間違っているとも言ってはいない。けれども、貧困というかなり困難な問題を「自己責任論」だけで片付けてしまうことはできないから、冷静に分析をした上で、貧困の実情を書いています。
そこでポイントになるのが、自己責任論がどんな概念に基づいて考えられている理論なのか、ということに目をむけている点です。
ある意見に対して反論を展開したい時、考えなければならない点はそこです。
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