変貌する聖女 論理国語 解説

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変貌する聖女 解説

第11段落〜第15段落

「個人的なことは政治的である」

大きな政治的うねりの中で、自分たちの置かれた不平等な立場を自覚しはじめた女性たちは、市民的権利の獲得だけでは問題が解決しないことに気づきます。(本文 第11段落)

この文章を理解するために、まず整理をしましょう。

ここで言う問題は、何か。

それは女性が男性と同等の権利やチャンスを得たとしても、男性的な活動や理工系などの高等教育を受ける選択をしないことです。

女性がなぜそれを選ばないのか。機会を平等にしても、なぜか数が増えない。能力がないからではありません。そもそも、受験数が男子8割。女子2割なのです。もうずっとそれが続いてしまっている。少しずつ増えてはいますが、この差は非常に大きいものです。そして、合格数の割合も全く変わりません。受験数が女子が多くても、合格数で女子が減っているのならば、能力がないということになりますが、比率がこうまで変わらないのは、本当にいっそ不気味なほどです。

これはとても「個人的なこと」のように思えるかもしれません。女性も自分の人生を考えるときに、選択肢として東大を選ばなかっただけだろうと、そう片付けてしまうのは簡単なことです。

けれど、本当にそうなのでしょうか。

筆者はこう語ります。

個人の苦しみは決して個人だけの問題ではない (本文 第11段落)

個人の問題は、広く社会や政治とつながっているのだと、言い切ります。

これはどういうことかというと、人間はそもそも住んでいる集団の影響を受けながら、成長します。その中に、無意識の形成も入ってきます。つまり、無意識下に潜む差別や偏見は、社会的なものであり、政治的な考えを反映したものだと、筆者は語っているのです。

人は、「できる」と思ったものは本当にできます。大学受験指導をしていると本当に思うのですが、「いけるかな?」ではなく、「自分にもいけるかもしれない。いや、いく!!」と希望を抱ける子は、合格率がグッと上がります。不思議なものですね。

人は「できる」と思うことが、才能の一つなのではないかと思うほどです。できない、というか向いていないものには、興味すら抱かないのですね。

けれど、その「できる」という範囲は、環境にやはり影響されます。

教育や保育、医療などの分野に女性が多く進学するのは、社会の中で働いている姿をよく見かけているからです。逆に、明らかに理工系の職業についているのは、男性が多いです。

進学校の東大受験率が高くなるのは、頭がいい子が多いからではありません。東大を受験する人間が歴代多く在籍し、この高校からは東大に合格できるのだと思えるから、志望するわけです。

もし、どれだけ頭が良かったとしても、誰も受験していない学校に在籍していたならば、視野にすら入らないかもしれません。(現代だとそんなことはないかもしれませんが、少し前までは本当にそんなものでした)

女性でも、高学歴の大学を目指してもいい。理工系の学問を選択してもよい。

そう心から思える環境に、あなたは生きているでしょうか?

もしかしたら、「いやそんなの恐れ多い」と一歩引く人は、なぜ自分がそう考えてしまうのか。その根源を、少し考えてみてください。特に女子は。

ジェンダーとは

女性たちは、それまで「あたりまえ」として問われることのなかった「女らしさ」「男らしさ」という概念が、不動のものではないことに気づき始めます。

概念とは、対象に対して、関係する意味合いや内容、思い浮かべること全てです。

つまり、「女らしい」と聞いた時にあなたが頭の中で思い浮かべるのが、概念です。イメージといっても良い。その言葉がもたらすイメージは、あまりにも当たり前に過ぎて今まで考えることすら、意識することすらしていなかったものです。

なので、このイメージは固定されていました。固定していると思い込んでいた、と言っても良いです。けれど、時代によって、環境によって、そんなものは変わるのです。

これらの概念は社会や文化の影響を強く受けており、時代やこの場所によって変化し、決して宿命などではないのだということを悟ったのです。(本文 第12段落より)

面白いのは、筆者が「宿命」という言葉を使っていることです。

時代や社会、文化に押し付けられた「女らしさ」を絶対に人生で成し遂げなければいけない「宿命」みたいに考えなくても良い、と言っているわけです。

そして、この文化や時代によって「作られた」性のありようがジェンダーであり、そんなものに縛られる必要はない、ということになります。

言葉の問い直し

この無意識の中に潜む差別や偏見に気づくことは、かなり難しいです。

何せ、目に見えないし、環境や政治が影響しているのならば、「そうすることが相応しい」と求められ、それに乗ることが本人にとっても都合が良い場合、自分の希望が偏見や差別に満ちた考えの上に成り立っていると気づけるのは、ごく一部だけでしょう。それほどに、無意識に思い込んでいることに気づくのは、難しいのです。

けれども、難しいからといって、何にもしないわけではありません。

その動きの一つとして行われているのが、「言葉の問い直し」です。

日本でも、女性がつくことを前提として職種の名前になっていた看護婦や保母という名称が、性差をなくした看護師、保育士となりました。そこから始めなければならないくらい、社会の中にジェンダーの価値観が伝統的に定着してしまっているのだから、一つ一つ問い直して、その背後にある差別意識を明確にしていかなければなりません。見えないものは変えることが難しいけれど、見える言葉は変えやすいです。そこから、始めなければならないぐらい、価値観が浸透してしまっているのです。

小さな動きでもそういう活動をしていかなければ、女性が思い込んでしまっている無意識の差別意識を変えることはできない、と筆者は主張したいわけです。

キュリー夫人の伝記が新しい視点で描かれるようになったのも、この動きの一つです。

歴史に名を残す女性達が「理想的な聖母」であるのならば、伝記を読んだ女性達は「有能な女性はこうあるべき」なのだということを、無意識に脳に刷り込んでしまいます。

聖母のように優しく、人を癒す存在であり、男性を常にたて、先に亡くなった夫の研究を自分が完成させなければと研究に没頭した、愛すべき女性。

そんな存在でなければならないのだ、とこの伝記を読んだ読者(特に女性の読者)が思い込むことを避けたい。そうではなく、偉業を成し遂げた女性たちは決してそのような、いわゆる「可愛らしい」女性ではなかったはずです。

物理学会という男性社会の中で頭角を表し、ポーランド人であるキュリー夫人がフランスの社会の中で生き抜くために、どれだけのバッシングと戦う必要があったのか。

個人的なスキャンダルをここまで大々的に報道された背後には、当時のフランス社会に根深く残る女性差別や、民族差別などが絡み合ったが故の結果だったのですが、その「フランスにとって都合の悪い部分」は、派手なスキャンダルに紛れて、またしてもかき消されるわけです。

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