「なんで、こんなに解らないんだろう……」
「何言っているのか、本当に解らない……」
この時期、受験国語。特に古典を教えていると、どうしても耳にするこんな言葉。
その言葉を聞くたびに、もっと古典って本来面白いものなんだけどなぁ……どうしてそんなに硬いイメージ持っちゃうんだろうなぁ……とずっと疑問だったのです。
多分、面白い!! と思うまでのハードルが、ちょっとだけ高いことが原因だと思っていたのですが、意味が解っても面白くないものは面白くないみたいで、なんでなんだろうなとちょっと考えてみました。
【古典嫌いになる原点】
‐学校のテストに対する、恐怖‐
学校の勉強は、どうしてもテストが付随します。
なので、「テストで役立つ知識はなんなのか」ということだけにフォーカスしてしまい、また、学校の先生もテストの平均点を上げたいから、どうしたってテストを意識して、授業をします。
でも、これって知識の強制、強要です。
私自身も塾講師をしていますし、受験対策や試験対策をする時は、確かにそれを意識して知識を伝えますが、けれど、そうやって学びとった知識はテストが終わると頭の中から抜け落ちます。
びっくりするぐらいに、生徒はテスト後。覚えていないです。
あれだけ高校受験、大学受験で頑張ったのに、喉元過ぎればなんとやらで、忘れてしまう。
これって、日本の語学教育と似ている気がします。
使わないから、忘れていく。テストの為に覚えたんだから、テストがなければ覚えていても、意味が無い。だから、また1から始めなければいけない。
それはとても勿体無いことです。
-理解しなければならないという恐怖-
テストでしか古典の知識を使わない。使う場所が無い、ということは、逆に言うとそれだけテストの点数の価値感が学生の中では大半を占めている、ということを指し示してもいます。
なので、授業を受ける時には、
「頑張って理解しなきゃ!」
「覚えなきゃ!」
「読めなきゃいけないんだ!!」
なんていう、「理解出来なきゃ死ぬ!!」ぐらいの悲壮感を漂わせている子も居るぐらいです。
そりゃ、好きになるわけがない。
むしろ、課されなければ、即行で教科書を投げ出したいし、「出来なきゃ死ぬ」なんて恐怖を抱えたままで、そもそも本に興味なんか持てないでしょう。
-覚えなければ! という恐怖-
そして、最後は最悪です。
テストで書かなきゃいけないから、吐き気がしそうになりながらも、皆、真面目に、必死になって頑張って覚える。
テストで高得点を稼ぐためには、山のように覚えなければいけないことがあります。
古典文法に、文学史、古今異義語の意味に、和歌の修辞法。時代背景に、作者の歴史的背景。
それらが塊となって、短期間に頭の中に詰め込まなきゃ、自分の学校での立場に。その先に続く、受験での選択肢が狭まる!!という恐怖感の元に、皆勉強を続けていく。
これだけ恐怖が積み上がって、好きになる要素がどこにあるのか……
何処にも有りませんよね。
古典嫌いが量産されるのが、解る様な気がします。
-義務感は人の興味を減退させる-
「やらなきゃ!」って思うことって、大概「やりたくないこと」なんですよね。
「やりたいこと」は、出来る時間があったら、「やれる! やった!!」って思うし。
なら、義務感って、実は人の本来の能力を減退させるものなのかもなぁ、と思っていたら、既に様々な心理学者や教育学者の方が研究で出していらっしゃいました。
人の脳は、本来楽しいことに惹かれるように出来ている。
逆を言えば、楽しくないことは能力が開かないのです。
なら、やらなきゃならないことを、楽しみに変える工夫が必要になってきます。
-文学は本来楽しむもの-
こういう言い方をすると、身も蓋もないと解っていて敢えてしますが、
文学って、基本、勉強するものでは無い。
文学は、本来読んで楽しむものです。
勉強は、「勉(つと)めて、強(し)いるもの」と読みくだします。
本来、やる気にならないものを、それでも必要だからと学びとるもの。
楽しみとは無縁の、苦しみが伴うもの、という言葉なんですね。けれど、読みものって苦しんで読むものでは本来ないはずです。
小説家も、古典を書いた昔の人々も、読者を苦しめようと思って書いている人は、一人も居ません。
ここまで古典の文章が残ったのは、それを楽しんで読み、読んだ人々が楽しいからと、伝えてきたからこそです。
なら、古典が本来持っている楽しさを感じ取ることが、古典の克服法に繋がっていきます。
どうやったら古典を楽しめるか。
必要なのは、その工夫ということになります。
-勉強と思うから、面白くない-
なら、どうやったら楽しめるのか。
凄く単純に考えると、勉強と思わなければ良いわけです。
もちろん、読むのは教科書だし、学校だし、そんなの楽しめない!と思うかもしれませんが、人間には「想像力」という魔法の能力が備わっています。
そう。
この想像力がつくかつかないかが、古典を好きなるかならないかの、決定的な違いです。
紙の上に書かれている、実在の人間ではない、ただの文字面の人。
そう思ってしまったら、何一つ想像力は働かないんです。
時代が違うだけで、人間の感覚はそう変わりません。
恋愛にしたって、一夫多妻制が認められていて、当然だという常識があってさえ、やはり、好きな人が自分以外の女性と会っていたら嫉妬するし、嫌だなと思うし、それが切っ掛けで嫌味を言ったり、悲しいと愚痴を言ったり、あんまり変わらないのです。
デートが終わったらメールやラインを交換するように、和歌を送りあう。
既読無視、なんて言葉が今は有りますが、これって和歌を貰っているのに返歌をしないことが、当時とてつもない無礼であったことと、ちょっと似ています。
そう。人の感覚は、変わらないんです。
物語の感覚も、一緒です。
【どうやったら楽しめるのか】
-必要なのは、想像力-
古典だけに限らず、物語を楽しむのに必要なのは、想像力です。
今の子ども達・学生は、生まれた時からテレビやアニメ、動画など、ありとあらゆる情報過多な世界に生きています。想像する前に、与えられてしまっているのです。
欠陥や欠損、不便は発明の母、と言いますが、これは、「これがあったら良いのに」という人の願望が、無い物を埋めるように脳内で想像します。
けれど、今は自分で考える前に、もう映像や音声で与えられています。
そうすると、興味関心って実は失せてしまう。想像する楽しみが、何一つ残っていないからです。
これって、想像の余地が残されている作品がヒットする法則と似ていますが、あーだこーだと想像したり、自分の考えを話すのが本来人は大好きなはずなんです。けれど、与えられてしまうと自分で作り出そうとすることが出来なくなってしまう。する必要が、無いからです。
本来、とても楽しいことであるはずの想像が、する必要が無い環境が整えられてしまった為に、使えなくなってしまっているのです。
なので、想像を促すために、知識や現代語訳を補助に入れてみる。(この現代語訳がある意味、とっっっても硬い文章しか無いのですが、意味を取るだけの補助として使います。)
-まず作者の背景を知ろう-
いきなり背景? 歴史でも学べと??
と敬遠されそうですが、そういうことを言っているのではなく……
少しだけ知識があると、人は見えるもの、気付けるものが変わってきます。友達の事を知るみたいに、古典の作者たちがどんな性格をしているのかを、ちょっと知ると興味が全く変わってくるんです。
古典の作者達って、かっっっなり波乱万丈な人生を送っています。
もともと、紙が超高級品だった時から、文字を書き、物語を書き遺すことが出来た人達です。社会の中でも、今風に言うのならば、勝ち組であることは間違いありません。
でも、中にはエリートコースを放り出して、隠居する人や、出家してお坊さんになっちゃう人だって居ます。
現代に例えるなら、東京でエリートサラリーマンやってたけど、人間関係疲れて、癒しを求めて田舎に移住してみた、とか、海外に行ってみた、とか、そんな感じ。
女性でも、政治家の秘書でばりばりやっていたけれど、信頼して部下をやっていた政治家が権力闘争に負けて、「ああ……自分ももうだめだっ……」って、落ちぶれる人もいれば、順風満帆に政治家が出世して、それにつられて自分の地位も上がったけれど、栄華を極めても、全てを手に入れても、なんだろう。空しさが心の中を占めている……ああ、何も知らない若い頃だったら、こういうパーティーも楽しめたんだろうなぁ……なんて、超高級品に囲まれながらたそがれる人も居るわけで。
そんな人達の中から物語が溢れてくるのを知ると、「貴方の人生そのまんまじゃん!!」と突っ込めたりするわけです。はい。
-自分の感覚を大事に-
でも、だからと言って強制的に「好きにならなきゃ!」と思う必要も全く無いです。
プリキュア好きにな人が居れば、仮面ライダー好きも居るし、金田一少年が好きな人もいれば、コナン好きも居る訳でして。漫画が好きな人も居れば、アニメや映画、ゲーム、動画……自分が好きなものは、結局自分しか知りません。
けど、何となくこれ好きだなぁっていうものは、皆、あるわけです。
それらは、別に強制されて好きになったわけじゃなく、自分の感覚で、勝手に、何かが惹かれて好きになったわけです。だから、好きで続きを読みたいと思うし、無理もしていない。恐怖も、怯えも有りません。
自然体で好きになるから、抵抗感はなく、好きだから読めるわけです。
-テストを切り離して考える-
テストの点数を上げるために、テストのことを一旦頭から切り離す、というのは矛盾している様ですが、急激に成績を上げてくる子達の殆どは、この傾向が有ります。
知識を蓄え、知ることを楽しみとし、「こんな考え方していたんだ」「これ、この感覚、好きだなぁ」と、必ず古典の文章が述べている内容に対して、好き嫌いを言います。
逆に、成績が上がらない子ほど、物語の内容に対して好き嫌いを口にしません。そもそも、そんな考えに頭が行かず、兎に角覚えなきゃ!で固定されてしまっているのです。
好きも嫌いもない。これは必要だから覚えるものだから。
そう思えば思う程に、硬直していきます。それよりも、文法なんてクイズ。解らなかったら、文法表見ればいっか!ぐらいの感覚で、何度も表を見た方が、頭の中に入っていったりするんです。
強制は、何一ついい事を生みません。なら、好きな話を見つけたり、古典の内容で言っていることに文句つけたり、「えーっ?」って感想を言い合ったりする方が、余程頭のに入ります。
-好きなお話を1個作る-
そして、やはり1番効果が高いのは、好きなお話を作ることです。
どんな話でも良い。好きな話なら、何度も読めます。
そうして、読んでいくうちに古典独特のリズムや言葉の使い方に慣れていく。そうすると、他の物語でもある程度対応出来るようになっていく。
そうやって、数をこなしていく先に、テストでの点数が繋がっていくだけなのです。
数学を得意な学生は、軒並み数学好きです。
国語もそう。結局、皆好きなものが得意になって行く。嫌いなものが得意なのは、稀です。
けれど、進学校に通っている子は我慢強く、忍耐力もあり、真面目です。
この、一見とても良い子たちが、実は努力に比例して成績を落としていってしまう。
何故なら、嫌いなものに常に向き合っているからです。能力が開くはずが有りません。
なので、好きな話を一つ作る。
今まで読んだもののなかでも構いません。好きだな。面白いなと思う作品を、ひとつだけ。作ってみましょう。
【まとめ】
古典嫌いを古典好きにするコツは、すっっごく単純で、好きなお話や共感出来る、自分が心から好きになれるものを一つ持つだけで良いのです。
世間的な評価だったりとか、必要だから覚える、なんて感覚は必要なく、自分の好きなもの。好きだな、と思える感覚。必要なのは、たったそれだけです。
ちなみに私が古典を好きになった切っ掛けは、川原泉さんの「笑う大天使」という漫画がきっかけだったり(笑 今でも大ファンです)
このなかで主人公達が「源氏物語」のレポートを書かなきゃいけなくて、必死に読むんですが、読めども読めども光源氏という絶世の美男子に対する文句しか出てこない。
「こいつ、頭の中、女のことしか考えてないぞ……」
「他に悩みないのかよ。世の中大変なことが溢れてるってのに……」
「周りの女性たちが不憫でならん……」
「顔と身分が良いだけの、マザコンでロリコンで不倫大好きの変態野郎じゃん」
と、散々に言われている源氏ってどんな人よ? と思って読んだのが、切っ掛けと言えば切っ掛けです(笑)そして、その指摘は当たっていると、今でも思ってます(笑)
そして、高校時代に、とても面白く解説してくださる先生がいらっしゃって、古典に出てくる人物って、完璧な人なんか何処にも居なくて、凄く人間臭い物語ばっかりなんだな、と思ってから、ぐっ…と抵抗感が低くなり、次々に読み始めただけなんです。
解らなかったら解説書読めばいいし、辞書引けばいいし、調べれば良いや、ぐらいのかる~い感覚で読み、結局今も「さて、この話ってどんなの?」ぐらいな感覚で、センターなどのテスト出題の話を読んでいます。
解らなくてもいい。けど、これってどんな話?
ぐらいの気楽な感覚を、是非持ってみてください。
受験で切羽詰まっている人達にも、是非、これは身に付けて欲しい感覚です。
何度も言う様に、恐怖で人の記憶や能力は花開きません。身に付けたとしても、受験が終わってしまえば、それまでです。すぐ忘れてしまったり、やったことすらも忘れて、結局アレだけの時間をかけて何を積み上げたのか解らない状態になってしまう。
そんな勿体無い!! と、どうしても思ってしまうのです。
教養って、必要だから身に付けるものではなく、感覚で積み上げるものです。
だから、是非、お気に入りの話を見つけてみてください。貴方の感覚で。貴方が好きだなと思う、物語を。
そこから、始まります。
ここまで読んで頂いてありがとうございました。
次は、古典を好きなる読み方をまとめます。
続きはこちら。
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