手の変幻 解説 その6。
今回は、全体のまとめとなります。
後半に定期テストの予想問題もつけました。テストの対策に使ってください。
では、まとめにまいりましょう。
【欠損することによって生じる美】
-欠けた両腕が示すもの-
両腕を失った状態で発掘された、「ミロのヴィーナス」
その両腕が欠けていたからこそ、ミロのヴィーナスは数多くある石像の中で、ここまで有名になり、これだけ人々の記憶に残り続ける作品となったのです。
このことを、筆者は「特殊から普遍への跳躍」と記しています。
特殊は、特別。つまり、個が指定できることです。それしか持っていないもの。それは一見良いことのように思われるかもしれませんが、数多く存在する中で抜きん出て人の記憶に残り、「これは大事にしていこう」と思うには、他とは違う何かがないと無理です。
その何かが、「普遍性」を手に入れたこと。
特殊、個性は、目の前に現物があります。完成された姿は美しく、「ああ、綺麗だなぁ」と疑問も何も抱かせない。すんなりとストレートに、「綺麗だ」と思えるものです。
そして、すんなりと思えるものほど、記憶から無くなってしまうのも早い。英語の格言で言うのならば、「easy come, easy go」と言ったところでしょうか。
けれど、ミロのヴィーナスは、腕を無くしたことによって、「謎」が生まれます。
見る人を、惹きつけてやまない「秘密」を彼女は持つことになる。
両腕を失う、隠すことによって、この「秘密」が生まれ、「謎」が生じる。
昨今、脱出ゲームやテレビなどでも謎ときが大ブームですが、人間って「謎」が大好きなんですよね。
「解らない」があるからこそ、強烈に惹かれてしまう。それを解りたいと思ってしまう。
けれど、この「謎」に惹かれない人もまぁ存在はするかもしれないので、その可能性を考慮して、「全体性への肉迫」と筆者は表現しています。
全員がそう思わざるを得ない状態(=全体性)に、限りなく近づいた(=肉迫)のです。
-理想の美を連想させるヴィーナス像-
そして、ここで重要なポイントなのは、その欠けた腕を想像するのが、各個人の脳内だということです。
どんな腕でもいいのです。
けれど、その腕は、見る人が「もっとも美しい」「もっとも好ましい」と思う姿であることが共通しています。その姿を、私たちは望み、それを脳裏に描く。
人の想像力とは、一番自分が好ましい状態を描くものなので、嫌な姿を思うわけがないのです。
だからこそ、ミロのヴィーナスは凄いと筆者は力説しています。
その姿を見るだけで。あるいは思い描くだけで、「ああ、どんな腕だったのだろう」と疑問を生じさせ、それを解きたくて堪らなくなった人間は、自然と脳裏に「自分の考えた最高に美しい姿」を思い描くのです。
不思議なのですが、何もないまっさらな空間に、「美しい石像を想像してください」と言われても、ぱっと思い浮かぶ人は少ないでしょう。
けれど、ミロのヴィーナスは、「腕だけが欠けた存在」です。だから、想像しやすい。残っている胴体の部分や表情がとても美しいので、それに助けられて「腕もきっと綺麗なものがついていたのだろうな」と思わせ、その美のイメージに合わせて欠けた物を埋めようとする。
すると、不思議とその人の持つ美のイメージと、ミロのヴィーナスの雰囲気が重なった部分が見えてくるんですよね。
そんなことをやってのける美術品は、稀有です。
だから、この石像は、数多く残っている古代ギリシャで作られた石像の中で、頭一つ抜きんでた存在になり得るのです。
【復元案は興ざめである理由】
-筆者の矛盾-
ここで面白いのですが、筆者の主張は若干矛盾した部分が発生します。
誰もが理想の美を、その想像で描きたくなる衝動に火を付けるヴィーナス像。
その欲望に火を付ける衝動性が高い人ほど。つまり、美術に精通し、美をこよなく愛する人ならば、「自分が考えた最高に素晴らしいヴィーナスの腕」を再現したいと願うのは、自然な流れです。
究極の、「無いなら作る」ですよね。
不便は発明の母、と言われているように、
「無いのか。よし!! なら、作るか。作りたいし」
と、自然と人の創作欲を刺激もしてくれているし、大いにその想像の幅を各個人が持つことは奨励しているのに、「作るのは駄目!! 絶対!!!」と言っているわけです。この筆者。
思い描くのは良くて、作るのは駄目ってどういうことだよ。浮かび上がったものを作り上げたくなるのは、自然な流れだろうが!!
と、思いたくなりますよね。
特に、その技術を持っていない人間ならば、そこでストップしてしまいますが、人間、必要な物の為にする技術習得は、恐ろしく速かったりします(笑)
現に、様々な国の色んな美術機関で、それは試されています。筆者がどう主張しようが、
「これ、良いと思うんだけどなぁ……」
と思っちゃったら、作りたくなるのが人間というものです。
けど、筆者は強烈に反対している。
それにはちゃんと理由があります。
-腕という具現を与えてしまうことによって失われてしまうもの-
誰かが考えた、若しくはそれこそ、紀元前にこの石像を作った作者が腕を付けたとしても、筆者は納得しません(笑)
誰がどんな理論を元にして、それがどんなに確信が取れて、納得できる姿であったとしても、「腕のない方が美しい!!」と断言しています。
家族への愛情と友人への愛情のどちらが大事か、なんて話がナンセンスであるように、違う存在に抱く愛情というのは、質がもはや違うから比べようがない。
それぐらい、腕がついてしまった「ミロのヴィーナス」は「両腕の欠けたミロのヴィーナス」とは別物の存在なのです。
何故なら、それは腕を無くすことで得たはずの「謎」を失ってしまうからです。
そう。「秘密」が無くなってしまう。それは、魅力を失ってしまうことと同義です。ありきたりな、それこそ沢山残っている古代ギリシャ時代の石像の、ただの一つとなってしまう。
それが美しくないと言っているわけではないのです。けれども、この「謎」「秘密」の魅力を失ってしまうことは、人に想像する余地を残す事もまた、できなくなってしまいます。
だからこそ、「復元案、ダメ。絶対!!!」と言っているわけです。
男女問わず、謎の多い方がモテますもんね。実在の人も、作品の中に存在する架空のキャラクターであっても。
-芸術の本当の意味-
ここでポイントになるのは、「芸術とはなにか」というテーマです。
「芸術って、なんか小難しそうだし、わけわからないからつまんないし、そんなに興味無い」
という人は、すごく多いです。
生徒に聞いても、ほとんどが
「興味無い」
「つまらない」
「解らない」
の無いないづくし。(笑)
なんか自分に縁遠い世界だし、知識ないと楽しめないだろうし、もっとお気軽に楽しめるゲームとか、マンガとかの方が良いし。
でも、筆者の理論で言うと、ゲームやマンガ、映画やドラマ、もちろん小説。日々の身につけるファッションや発言でさえ、「芸術」ということになります。
これを難しい言葉で言うと、「表現者」と「鑑賞者」ということになります。
だから、毎日のおしゃべりでも、「話す人=表現者」で、「聞く人=鑑賞者」ということになる。
となると、日常の様々な場面で芸術は存在しているということになります。
その二つの存在が、互いに相互しあい、意識、概念を変えていく。お互いに影響し合って、変化し続ける。
表現者も、鑑賞者が居て初めて成り立つし、鑑賞者は表現者が居てこそ、様々なものや価値感を受け取ることができる。
この二者には、誰もがなれるし、仮に表現者であったとしても、時と場合が違えば鑑賞者です。その二つを行きつ戻りつしながら、様々な価値観を吸収し、人は変化、成長していく。
影響力が、腕が欠けている事でとてつもなく強くなったのです。
だからこそ、その影響力が強い、私たちに訴えかけてくる力が強いことの価値に重きを置くと、どれだけ美しい再現案があったとしても、それに心の底から納得したとしても、欠損した現在のミロのヴィーナス以上の魅力は、決して生まれてこないわけです。
【欠けた部分の意味】
-人間にとって「手」が重要な理由-
ミロのヴィーナスが欠けた部分は、両腕です。
その他の部分が欠けたとしても、この石像の「謎」「秘密」はここまで魅力的にはならなかったと筆者は最後に指摘しています。
手で触ることによって、私たちは色んなものを認知します。
現在のような便利な世界になったとしても、直接手で触れて、確認し、それを体験するという行動は、多くのことを私たちに伝えてくれている。
それが重要だと解っているからこそ、その腕が欠けた存在が、強烈に印象に残る。
手は世界のすべてと繋がっているからこそ、気にならずにはいられないのです。
-ふしぎな皮肉-
アイロニー=皮肉と言うこと。
その前に、筆者は科学者の言葉や、文学者の言葉を挙げています。
これは、「言葉で表現したもの」「存在し、眼で確認できるもの」です。
言葉も、手で触れられるものではないけれども、多くの想像をかき立たせてくれます。
けれども、不思議なことに、ミロのヴィーナスは「ない」ということで、その想像をかき立たせている。
言葉は、言葉にして初めて意味を為します。読んで、意味を理解し、それに刺激されてイメージが湧く。
けれど、ミロのヴィーナスは、腕が「ない」という、逆の現象で、その存在感やイメージを刺激していく。
表現することよりも、敢えて「ない」「何も見えない」「欠落している」という、美術品としてはあり得ないほどの欠陥があるにも関わらず、それがとてつもない魅力になっている。
無の価値、とでも表現すればいいのでしょうか。
その価値に、気付かせてくれる存在だと、筆者はまとめています。
【定期テスト予想問題】
では、本文最後の部分から。
第7段落、「ふしぎなアイロニーを呈示」とは、どういうことか。その前後を踏まえ、筆者の主張を理解したうえで、解説しなさい。
さて、これはどう解けばいいのか。
前後を踏まえて、とありますので、「これらの言葉に対して」という記述の部分を踏まえろ、という合図です。
だから、科学者や文学者の言葉の表現にも触れなきゃならない。
全体の要旨を入れろ、と言うのですから、「人は欠けた存在に刺激されて、自分の理想の美を想像で描きだす」「その魅力を、腕を無くしたことでヴィーナス像は手に入れた」という部分を書きくわえればいいのです。
では、どうなるのか。
解答は、
期待していた結果通りにならない=皮肉、です。
本来だったら、1+1は2になる筈。2は確実に0よりも大きい数です。
けれど、1-1=0。つまり、存在がないものの方が、人間に与える影響力は100にも、1000にもなる可能性を秘めている。
それが、1+1を信じている人たちにとっては、皮肉だろうなと。
そう筆者は言っているわけです。
では。
芸術論だと眉をひそめるのではなく、芸術は日常生活のどこにでもひそんでいるのだと思って、定期テスト。乗り切ってください。
ここまで読んで頂いてありがとうございました。
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